田染幸雄のエッセイ 1
田染幸雄のエッセイ 1
1987に発行された「田染幸雄画集」の中から
「 田染幸雄のエッセイ 」を、少しずつ紹介していきたいと思います。


建物から道へ
27年に上京して以来、
講談社からのイラストレーションやレタリングの仕事に追われ、
雑誌の仕事独特の早急さの中に、あっという間に月日が流れた。
我を忘れさせるような
慌ただしい流れの中にいる快感があったように今では思っている。
徹夜仕事をして夕方原稿を渡すと、また徹夜して新宿の町にいたりした。
昭和45年、北海道へ旅をした。
これまでも、仕事というより、油絵の制作のために旅をしていたが、
目的をもって行ったのは初めてであろう。
小樽の運河沿いの倉庫を描いてみたかったのである。
徳山にいた頃も、土塀や、土の蔵を描いていた。
崩れたところには、下地の竹や藁が見えていて、
シミだらけなのが気に入っていた。
レンガ造りの運河沿いに歩いて、古い石の作る色模様に見とれた。
建物や運河、それに放置された物々と、セッティングは申し分がない。
心の中の絵は出来上がっていたが、
その石の作った偶然の模様が思いを拡げてくれていた。
全く自然な形にも一つの合理があるのだろうが、
人為的なものに人が意識しない形が見えたりすると、
妙に心が動くのである。
同じレンガを全体の形を作る為に積み上げると、
微妙な色の違いがおもしろいモザイク模様を作り
時間がそれに上塗りするがごとくに、これを仕上げているのだ。
長万部、室蘭を歩いて、古い建物や土の道を取材した。
土の道は自然だからとかぬくもりがあるとかいうのは、あまり考えたことがない。
足跡や車の轍に自分の夢を見るのである。
舗装された道でも、雨上がりや、雪の残ったところには興味をもつ。
しかし、むき出しのコンクリートは少々粗雑に思われて、
建物にしても、たとえおもしろい形が見えても興味がわかないのである。
出版の仕事を長くしており、その時には
挿絵ばかりかレタリングまで頼まれると受けていたのだが、
レタリングの仕事の時にも同じようなことを感じていたのである。
そしてこんな感覚は自分だけなのかなと思ったりもしていたのだが、
嘗てビクトル・ユーゴのインクスケッチを見たときホットした思い出がある。
それは、原稿用紙にこぼれたインクが勝手に広がったものに
少々手を加えて作品にしたものであった。
レタリングをしていて、完成間近の時にポスターカラーがポタリと
落ちてしまったりすると、ホワイトで直せもするのだが、
思わず見とれてしまうことがあった。
機械的に描かれた文字( 我ながらうまくいったと思ったりしているとき )に
落ちた点は、描いたものとは異なった自然の形を見せるのである。
このバランスが妙に気に入って、
編集者にどうだとばかりに見せたりしたのであった。
もちろん編集者は、この忙しい時に冗談はよしてくれといった顔をしていた。
「こんど挿絵で、是非そういうのをしましょう」とか付け加えたりして。
気分の集中した時には、何故かそんな自分の世界に入ってしまう
しかしその新発見も、本人だけのものであったりするのがしばしばなのである。
そして、失敗したレタリングの上に落ちたポスターカラーは丁度、
打ちっ放しのコンクリートの上のシミのように私には思えるのである。
北海道の取材の前にも、東京駅や本郷界隈の建物を取材して
油彩作品を描いていた。明治・大正の建物を好んで描いた。
山口生まれの私には特にノスタルジックなものではなかったと思うのだが、
ナイフで塗りこめる仕事をしていた。
雪の道を初めて油彩に描いたのもこの頃であり、
当時銀座の画廊と付き合い始めていた私は
小樽の作品と雪の道を画廊に持って行った。
そして同じ頃、出版の仕事を止めている。