田染幸雄のエッセイ 7
田染幸雄のエッセイ 7
郷里・思い出
私の育った徳山は、もと毛利藩の城下町で昔から良い港があり、
陸上海上交通の要であった。
戦前、海軍燃料廠やそれに関連した工場が設置され、
現在は出光興産を中心とした大規模な石油コンビナートになっている。
沖合10㎞程には、
人間魚雷回天の特攻基地が置かれたことで知られる大津島があり、
そこには当時をしのばせる基地跡が残っている。
16歳の時、ここにあった第三海燃幹部養成所で修学、技術者を目指したが
終戦を迎えそこは閉鎖されてしまった。
行く場所も目的も失ってしまったのだが、
父親の影響で水彩画や日本画を描いていた私は、
それに熱中するようになっていた。
行きどころのないエネルギーを明確な目的もなく絵を描くことにぶつけていた。
まあ、器用に描くといったレベルのものであったが、
描きまくってうまくなることだけ考えていたのである。
両親はそんな自分に黙って絵具を与え、油絵具もそろえてくれた。
息子の才能を信じていたというより、
余計なことを考えず夢中に絵を描いている方がよいとでも思っていたのであろうか。
昭和24年に「 研究生募集 」という広告が目にとまり、
松田康一先生が主宰する岩国美術研究所に応募した。
松田先生は、フランスで絵を学び、
ビルマ国会議事堂の壁画を手がけたり、と活躍して
岩国に理想的な研究所をと、私財を投じた人であった。
全寮制で最低限の画材は無料で支給された。
アシスタントには、美術学校卒業の人が二人来ており、
今日考えても、内容的には素晴らしいものであったし、
私にとっては大変幸運なことであった。
米軍基地でペンキ塗りのアルバイトをしたのも、
その当時の懐かしい思い出である。
2年ほどこの研究所で油彩画の基本を習った後徳山に戻ってからも
現在の光市や徳山市、隣の町鹿野町に取材をして風景を描いていた。
このころは、風家といってもそこにある古い建物が主であった。
近所に日本画( 南画 )をする人がいて、
顔を出しては少々いたずらをしているうちに
「 岐城 」などと号をもらって楽しんでいた。
田舎のことで呑気と言えばそれまでだが、
戦後すぐの都会生活からすれば確かに何とも呑気であった。
しかし、それなりに目的を持てたのは今でも両親に感謝している。
市展や県展に出品して賞をもらったりしていると、
近しい人の中にはそれを求めてくれる人もいたりして、
特に絵を描く以外何もなかったので、それで充分生活が成り立っていた。
郷土の友人から声がかかったのが27年ごろ、
東京で出版の仕事をしないかということであった。
ここでも幸運であったのは、
講談社と契約ができ安定した仕事ができたことであった。
挿絵、イラスト、レタリング、構成、と頼まれたことをこなしていった。
少年マガジンや小説現代、学習誌、少年少女向けの単行本と
忙しい生活を送っていた。
記念に何かをとっておくということをあまりしないので、
こうしたものは手元には何も残っていないが、
出版の慌ただしい仕事の中で覚えた
何か新しいものをという好奇心だけは持ち続けたいと思っている。
形真展、新自然展、飯田画廊での個展、百貨店での作品展と
いろいろの形で作品を発表してきた。
油彩の技法については、グループの人や招来された展覧会からずいぶん
盗ませてもらってきた。その技術が、
確かに自分の制作の制約を解放してきてくれたのは事実であろう。
雪、石、土、水の質感は自分の表現ではどうしても必要なものであったし、
その技術が自分の好奇心、表現を可能にしてくれているのである。
自然が自然に「 いたずら 」をする、
自然に対しての何気ない人為が妙に自然らしく見える。
雪の道の車の跡、砂の上の波のいたずら書き、谷川の水の作る紋、
雪の上の足跡、雪景の中の木の温もり、
技術的にもまだまだだと思いながらも、
心の中にいつも余裕を残して、絵を描いてゆきたい。