田染幸雄の生立ち
<ふるさと・山口県徳山市(現在の周南市)>
・・私の生まれ育った徳山は、もとは毛利藩の城下町、
陸上海上交通の要であった。
戦前、海軍燃料廠や関連した工場が設置され、
現在は出光興産を中心とした大規模な石油コンビナートになっている。
人間魚雷回天の特攻基地が置かれた大津島は、沖合10km程の所にあり
当時を偲ぶ基地跡が残されている。
―田染幸雄の手記・・[田染幸雄画集]より 1987年発行―
幼き日からの遊び場でもあった遠石八幡さまについては
こんなふうに話しておりました。
たとえばお祭りのこと。
三つ折れの急な石段を、転げ落ちるかのように御神輿を担いで下って、
海辺に設えた御神輿台に安置したものだ・・
もう今ではその海もなくなってしまった・・と残念そうでした。
過ぎし日、山陽本線の線路の向こう側には、内海と外海が広がっていたそうです。
小学生の頃は海辺が遊び場、
今でも、疲れるまで泳ぎ続けられる・・彼はよくこんな風に言っておりました。
そしてこれは、彼の母親から聞いた話・・
幼い彼は稚児さんになって、輿に乗せられたことがあったそうです。
きれいにお化粧してとても愛らしかったとか。
床の間にお菓子の山が出来ていたのを憶えているけれど、
その時のことだったのかなあと彼は話していました。
戦争が始まったのは、彼が小学校五年生の時。
そして彼は、中学進学ではなく第三海軍燃料廠所属の養成所に入学し、
寄宿舎生活を送りながら、技術者をめざしての勉学の道を選んだそうです。
その海軍燃料廠は、1945年5月10日の空襲でほぼ全滅に近い状況となり、
多数の死傷者が出ていますが、
西の端に位置していた養成所だけは無傷で残ったそうです。
また、7月24日の夜間空襲では、
徳山の市街地のほとんどが焼失、多大な被害を蒙っています。
その空襲については、
帰途に就いた敵機が、残っていた焼夷弾全部を徳山の上空で
“ほかして”行ったのだろう、と話す人もいたようです。
この時は、彼の実家にも焼夷弾が落ちて、屋根を貫通しながらも天井裏で止まり、
一部は燃えたらしいのですが、たいしたことにはならずにすんだと、
これも彼の母親から聞いた話です。
<終戦>
彼が15歳を迎えた時、戦争は終わりました。
養成所を退所した彼は、父親と伯父の勧めもあって絵の勉強を始めています。
岩国美術研究所での勉学と、
公民館で寝泊りしながらの半自炊生活が始まったそうです。
鹿児島、長崎、熊本、広島など各地から集まった人たちとの共同生活。
戦後で物のない時代でもあり、先生も奥様も、そして本人達、
その親達だっていろいろ大変だったようで、
時に、それぞれの実家から送られてくる食料品もめずらしく、
〈長崎のかんころのことはよく憶えている・・〉
〈ぼくの場合は、両親や伯父たちの理解と後押しがあったから、
あんな時代でも結構暢気にやっていられたのかも知れない・・〉
と、彼はよく話していました。
・・海軍燃料廠は終戦を迎え閉鎖されてしまった。
行く場所も目的も失ってしまった私だが、
父親の影響で水彩画や日本画を描いていたので
いつかそれに熱中するようになっていた。
行き場のないエネルギーを、
明確な目的もないまま絵を描くことにぶつけていた。
器用に描くというレベルにすぎなかったが、
描きまくり、うまくなる事だけを考えていた。
両親はそんな自分に、だまって絵の道具を与えてくれた。
息子の才能を信じていたというより、余計なことを考えずに
夢中で絵を描いている方が良いとでも思っていたのであろうか。
・・1949年、岩国美術研究所の研究生募集の広告を見て応募。
先生はフランスで絵を学び、ビルマ国会議事堂の壁画を手がけるなど
活躍されていた方で、岩国に理想的な研究所を作りたいと、
私財を投じた人であった。
全寮制で、最低限の画材は無料で支給された。
アシスタントとして、美術学校卒業の人が二人来ており、
内容的には今考えても素晴らしいものであり、
私にとっては大変幸運なことであった。
2年程、この研究所で油彩画の基本を習っている。
―田染幸雄の手記・・[田染幸雄画集]より 1987年発行―
戦後の混乱期を経て、徳山市も大きく変わりました。
山陽本線の上を山陽新幹線が走り、
内海から外海にかけては大規模な埋め立てが行なわれ、
そこに出光興産の石油コンビナート出現。
(今では、周南石油コンビナートとも呼ばれているようです)
このように、徳山が変わり始めてから何十年にもなります。
残念ながら今ではもう、彼の実家から望める場所に海はありません。
〈父に連れられて、マツタケを採りに行ったことがある〉
と彼が懐かしげに語る生家の裏山は、平らに均されて、
今では住宅地やグラウンドになっています。
それでも2,30年前までは、家を出て、右に行けば遠石八幡、
左に行くと道が二股に分かれて、右は櫛ヶ浜、左は花岡への道、
そして、櫛ヶ浜への道には、まだ家の下に船を引き入れることの出来る、
漁師の家が健在だったし、花岡への道には、
その昔街道筋であったことを物語るかのように、松の木がわずか、残っていました。
そして実家の裏山への道をたどると、彼が描いた民家や道がありました。
今では、そうしたもの全てが無くなり、
賑やかだった徳山の街も、シャッターが下ろされた店が目立ち、
帰るたびに静かになっていきます。
徳山市という名も無くなり、新南陽市、鹿野町、熊毛町と合併して
周南市が誕生したのが、2003年4月21日、
その話を聞いたとき、故郷が消えてしまったようだと言っておりましたが
きっと寂しかったに違いありません。