なっちゃんの小さな思い出・小名浜
江田駅前の酒屋さんで・・
背戸峨廊散策を終え、少し早めに江田駅に
帰り着いた私たちは、駅前の酒屋さんに立ち寄っています。
そして、その酒屋さんで偶然出会った人達と取りとめもないまま
話を進めているうちに・・
その人達も、夏井川の紅葉を楽しみにいらしたそうです・・
私は、幼い頃ほんの一時過ごした小名浜のことを
思い出しておりました。
これからどちらへ・・
鮫川の紅葉もすばらしかった・・などと話が始まって
私たちが千葉から来た事を知ったお一人が
〈千葉・・名前だけは知っているけれど・・
私たちは小名浜から・・小名浜といってもご存じないでしょうね〉
ところが私は思わず
〈いいえ、昔、小名浜に住んでいたことがあります〉と答えておりました。
住んでいたといっても、何十年も昔のこと、
まだ私が3,4歳の頃でそれも1年半くらいでしたので、
憶えていることと言ったらたかだか、
神社の森の左側の坂道を登っていくと視界がひらけ
その道の左側に家があったこと。
家の窓からは目の下に海が見えたこと・・くらい
小名浜から見えた方たちはお互いに顔を見合わせながら
小名浜もずいぶん変わってしまったから・・
でも、坂道上がって左が海っていうと・・
ほら○○、と地名をあげながら
〈あの辺りじゃないかなあ〉
〈でも、あそこらへんに、神社あった?〉
〈どうだったかしら・・〉
〈小さい頃の記憶だから・・〉と首をかしげる私に
〈それがね、あんがい正確に憶えているものなのよ、そうしたことって。
私も、いろんなこと憶えているねって、親に言われたことがあるし・・〉
(注・1) 最近になって、当時の住まいが
「小名浜町神楽場」にあったことを知りました。
また、いわき市の中央図書館が“地名の変化に見るいわきの近代化”
という本を編纂したことを知り問い合わせたところ
昭和32年に、神楽場は諏訪町に併合されたこと
また、私が憶えていた神社は“諏訪神社”に違いないことも
教えていただけました。
現在、諏訪神社の近くには“神楽場公園”があるとのこと。
(注・2) その頃 常磐線の泉駅から小名浜まで(5、4km)
“小名浜臨海鉄道”が走っていたそうです。
1972年(S47)、旅客営業が廃止になり、現在は福島臨海鉄道
として、貨物専用鉄道となっています。
小名浜で・・なっちゃんの小さな思い出
今日はみんな何をしているんだろうと思いながらなっちゃんは
お庭の中を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり・・
棒きれで地面にちょっと絵をかいてみたり・・
でもね、何をしていても、何だか・・
ううん、何もかもがいつもと違うような気がして
気になって気になって、ドキドキしてしまいそう。
お父さんとおよそのおじさんたちがお庭に大きなドラム缶を出して
ときどき中をのぞきながら
棒みたいなもので、何だかわからないけれど何かをかきまぜている・・
何を作っているの?
割烹着すがたのお母さんやおばあちゃんは・・
ばあばもいるみたい・・お家の中で忙しそう。
何できょうは、みんなそんなに忙しいの?
ときどきお母さんがお家から出てきて
お父さんと何かお話ししているけれど
いったい何のお話しをしているの?
みんなみんな、いつもとちがう。
ここは小名浜のお家、なっちゃんのお家
丘の上に建っていて、だから応接間からは、青い海もよく見えたの。
いつもだったら、応接間の木馬にのって
♪♪・・ミヨトウカイノ ソラアケテ
キョクジツタカクカガヤケバ・・♪♪とか
(見よ 東海の空あけて 旭日高く輝けば・・)
♪♪・・ナーナーツ ボタンハ サクラニイカリ・・♪♪
(七つ釦は 桜に錨・・)
とか歌っていたかもしれないのに
でも、でも、今日は何もかもがいつもとちがう。
ポカポカとお日さまがてっていて
だからお庭にいてもちっとも寒くはないの。
でもね、お庭の花も草も、みんなみんな枯れちゃって
木の枝もからっぽ。
お庭にあるものみんな、何もかも、茶色だった。
お空だけが青かった・・
なっちゃんはそのとき
いろんなことをしながら、いろんなことを見ていたの。
4歳半のなっちゃん
後々の母の話によると、
父のもとに赤紙がきたのは昭和18(1943)年12月31日で、
入隊日は1月9日。
あまりにも急な話だったから、あわただしくて、せつなくて・・
父ももう30歳を過ぎていたし・・それも丙種
小さな子供が三人もいて・・
更に、お腹にはこれから生まれいずる子供もいることだし
となると、母たちにしてみれば
まさかまさかの事だったそうです。
それにしてもいかんせん、あまりにも時間がなさすぎました。
残していく家族のために、今自分に出来ることは何か・・
この差し迫った時間の中で、何ができるか思い悩んだ父は
仕事がら手に入りやすい魚油を使って
石鹸を作っておこうと考えたのだそうです。
そしてその日の光景が、
忘れられない思い出の一齣(ひとこま)として
幼い子供の頭のどこかに眠っていた・・
石組みの上に銀色のドラム缶が載っていたことはしっかり憶えているのに、
不思議なことに、その時の炎の色も
石鹸作りとなれば、魚油を使い、苛性ソーダも使っていたはずで
強烈な匂いもしていただろうに
そうしたことはなにひとつ憶えてはいないのです。
明るすぎるほど明るい陽射しの中で
黙々と動きまわっている人影ばかり・・
何の音も、人声すら思い出せない・・
そして、多分この日のことだったと思う、
もう一つ別の映像・・
門を出ると、道の向こう側はゆるい傾斜の畑地になっていて
その向こうは森、兎やタヌキや鳥がたくさん住んでいると
聞かされておりました。
太い蛇が、ゆっくり道を横切っていくのを見たことも憶えています。
そしてその日、みんなは
ござをかかえて、風呂敷に包んだいくつものお重を持って
畑の向こう側の森に沿った道を歩いていました。
お重の中には、
色々な煮物や海苔巻が詰まっていたのかもしれません。
そしてなっちゃんの記憶・・
畑をぐるっとまわって森のそばの道を歩いていくと、広場があって、
枯れた草がいっぱい、やわらかく重なりあっていました・・
そこに、ござを敷いて座っていた人たちが誰だったのか
何を食べていたのか、どんな話をしていたのか、憶えてはいません。
綿入れ半纏(わたいればんてん)を着たなっちゃんは
じいっと海を見ていたの。
いつもよりいっぱい海が見えるみたいだ。
なっちゃんの後ろには、いっぱい人がいて
いろいろお話ししたり、
お料理食べたり、
お酒飲んだりしているみたい。
今日はみんな、どうしたの。
なっちゃんは思いっきり背のびして、高く高く手をあげてみた。
お空までとどきそう!
たしか、このとき着ていた綿入り半纏は、紅梅白梅の小花模様で、
黒繻子の衿がかかっていたように憶えています。
後から考えてみれば、これは、
父の出征を前にしての、壮行会だったのかもしれません。
そしてこの日こそ、私が父と会った最後の日に
なってしまったのかもしれません。
なぜなら、伯母夫婦の養女となることが決まっていた私は
その日、伯母に連れられて霞ヶ浦の阿見の家に行き
小名浜の家に戻ることはありませんでした。
もうだいぶあとになってから母から聞いたこと・・
父の出征は、とても寂しいものだったそうです。
引っ越したばかりのなれない土地で
見送りも、ごくごく親しい人たちだけ。
昔のように小旗振るわけでもなく、
ひっそりと、それはそれは寂しい出発だったそうです。
戦況も、そこまで逼迫していた、そういうことだったのかもしれません。
母たちが御殿場まで慰問に行った時の写真を見たことがありますが
父が、いつ、どこの港から、どこへ向かって出航したのか
輸送船の名すら知らされてはいなかったそうです。
召集されたのが昭和19年1月9日(1944)で
わずか6か月後の7月18日に、父達が乗った輸送船は撃沈されています。
弟の誕生は、同じ年の7月17日。
この世にわずか1日だけ、父と弟は同生した事になります。
私は、伯母と二人で茅ヶ崎へ伯父の慰問に行った日のことを
それこそかすかに憶えています。
昭和も20年(1945)に入っていて、この日は穏やかに晴れていました。
なっちゃんはひとり、海辺を歩いていたの。
ふり返って見ると、じいじとばあばは丘の上の
さっきと同じところに腰をおろして、お話しているの。
大きな波が、ザッブウンってなっちゃんを追いかけてきて
だいじょうぶだってことぐらいわかってはいても
それでもやっぱりなっちゃんは、走ってにげた・・
〈おおい!〉じいじが呼んでいる・・
〈はーい!〉
なっちゃんは、浜辺の急な坂を登っていった・・
〈茅ヶ崎の海は、急に深くなっているから、水辺には近よるな〉
なっちゃんは、こっくりして、また海の方を見ていたの。
伯父は、幸いにも外地に出ることもなく戦後間もなく復員。
〈もう乗る船がなくなってしまっていた・・〉
伯父は、そんなふうに話しておりました。
石鹸の行方・・
父が作った茶色の石鹸は
小名浜から阿見村へ、そして私たちと共に引越しを続けました。
それは、いつの頃の事だったのか・・
私はもうその頃中学生になっていたのかもしれません。
銭湯で髪を洗っていると、
隣の人がへんなせき払いをしているのに気がつきました。
見るとその人の膝まわりに、薄茶色の泡が流れています。
私の頭から流れた石鹸の泡・・
〈あ、ごめんなさい〉
急いで新しいお湯をくんで石鹸液を洗い流し、下手に移動したのですが
その時私は、今更のように
時代がすっかり変わってしまっていることに気が付きました。
朝鮮戦争が始まっていて・・
みんなが使っているのは真っ白な泡の立つ香り高い石鹸
そして、真っ白なタオル。
それからの私は父の石鹸を
家の中でだけ大事に使うようになっておりました。