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なっちゃんの思い出・〈 65年後の阿見 〉

2010 / 05 / 24 なっちゃんの思い出・その後(1)

〈 なっちゃんの暑い夏(2)霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の思い出 〉
( なっちゃんの思い出・疎開 )

上記二つの「 なっちゃんの思い出 」の中で
阿見村(現在の茨城県稲敷郡阿見町)について
幼き日に見憶えていたことを、記憶のままに書き記しております。

ただ、小学校入学前の子供の頃の記憶ですので
果たして正確なことだったのかどうか・・
ブログ上で発表した手前、気に懸かっておりましたので
4月18日(2010)、思い切って阿見に行ってまいりました。

65年後の阿見

当時( 昭和18、9年頃 ) 伯母に連れられて阿見の家に行ったとき
土浦駅からバスに乗ったように記憶しておりましたので
今回も、土浦から行くことにいたしました。

駅前に数台のバスが止まっておりましたので
発車間際のバスの運転手さんに
「 阿見神社の方に行きますか ? 」
「さあ・・? 阿見神社? 1番乗り場で聞いてみたら・・ 」

1番乗り場の標識には「 阿見公民館 」「 阿見○○ 」「 阿見△△ 」
とありましたので、
近くで話し込んでいた3~4人の運転手さんらしき人に
「阿見神社に行きたいのですが・・」
「 阿見神社・・? 阿見も広いからね 」

土浦の人なら、誰でも阿見神社を知っているはず・・と思い込んでいた私
さあ、困った・・ふっと
当時( 65年前 ) 乗り降りしていたのは、たしか“ 坂上航空隊前 ”
ひとつ手前のバス停が “ 坂下航空隊前 ” だったことを思い出し
思わず、「坂下とか坂上とかいうバス停はありますか ? 」と尋ねていました。
「 ああ、だったら、阿見坂下、阿見坂上がありますよ 」

阿見公民館行きのバスに乗って、「 阿見坂上 」で降りてはみたものの
記憶を呼び戻せるようなものは何ひとつ見当たりません。
近くにタクシー営業所らしき所があって、車を洗っている人がいたので
「 阿見神社に行きたいのですが・・」
「 その先の道を右に曲ってすこし行くと左側にありますよ 」

という経過を経て、無事、阿見神社に到着しました。

記憶の中では、お社も杉木立も、石畳も
もう少し大きかったようですが、でも此処こそ間違いなく
思い出の阿見神社だと確信いたしました。

    ・・ 戦争がとてもはげしくなり
    昭和20年のはじめ頃にはじいじも出征して
    夜中に空襲警報が鳴ることもありました。

    そんな時、
    いつでも逃げられるように枕もとに用意しておいた
    防空頭巾をかぶり半てんを着て
    リュックサックをしょって
    家族みんなで、阿見神社の境内まで大いそぎ大いそぎ !

    生まれたばかりの弟をおんぶしたお母さん
    おひつや、大事な物を一まとめにした袋やござをかかえた
    ばあばとおばあちゃん

    なっちゃんは
    参道の石畳にしいたござの上に寝て、空を見ていたことを憶えています。
    真っ黒に見える木々の間から、高い高い空が見えて
    こま切れの空だったけれど、お星さまが光っていました。
                     ( なっちゃんの思い出・疎開 )より

阿見神社の境内を出て
この辺りが「 阿見村営住宅 」だったはず・・
でも近くに建っているのは、大きさも形も異なった家ばかり。

記憶の中の家、それは、生垣に囲われた同じ造りの小さな家々が
並んでいるものでした。

65年前と現在が同であるはずはなし・・

確信の持てぬまま家並みの間の小道を歩いていると
草むらの中を悠然と歩いている猫発見 !
毛並みがふさふさと、まるでライオンのようでした。
動物好きの娘へのお土産になると
急いでカメラを出して一枚ゲット!

タイミング悪く、あくびをしているところでした。
もう一枚・・残念 ! 毛並みのお手入れが始まっていました。

その時、すぐ脇のお家で庭の手入れをされている方がいらしたので
思わず声をかけてしまっていたのです。

「 この辺りは、昔、阿見村営住宅があった所でしょうか 」
その方ははじめ、かなり戸惑っていらしたようでしたが
「 私は昔のことはわかりませんので・・」と
おうちの方に、何やら尋ねてくださって「・・ どうぞお入り下さい 」

いったい何をどう伺ったらよいものやら
今度は私のほうが戸惑ってしまって
それでも招じ入れられるままに、座敷に上がってしまっておりました。

昭和20年生まれの、そのお家のご主人の話によると
この辺りは、阿見村営住宅に間違いないとのことでした。
戦後、村営住宅は払い下げになったそうで
その方も、いっとき家を離れたことはあったものの
その後はずっと阿見住まい。
ほとんどの家は建替えられているけれど、中に2、3軒
当時の面影が残っている家もあるとのことでした。

伯母宛にきた葉書の住所からみて
もしかしたら、お隣同士だったのかもしれないなどと
話ははずみました。

私が憶えていた家の間取りの話になって

   村営住宅は今様に言えば3K、それも、
   炬燵を置けるだけの3畳か4畳半の和室が台所の隣にあって
   あと6畳の和室が二部屋。
   そして伯父が、“入ったような気がしない”といつも言っていた
   小さなお風呂場がついているだけでした。
      ( なっちゃんの暑い夏(2) 霞ヶ浦海軍航空隊の思い出 )より

ご主人の話しによると、確かに家は10坪程度の狭いもので、間取りも
私が憶えていたのとほぼ同じようなものだったようです。
ただ、村営住宅ができたのが昭和14、5年の頃で
航空隊関連の人達が多く入居していたとか
当時としては、憧れの住宅だったそうです。

私が憶えていたもう一つのこと
坂下に、たしか銭湯があったと思うのですが・・
しばらく考えていらっしゃいましたが、
「 そうそう、映画館があって・・銭湯は昭和30年ごろ廃業しています 」
「 映画館は憶えていませんが・・住宅の入口に、金網小屋があって
昭和19年頃まで、猿がいたんです・・」
残念ながら、小屋の記憶はないとのことでした。

ご主人のおっしゃるには、戦時中
土浦-阿見間に、常南電気鉄道というものが開通し
阿見村の中心部には新町という町が出来て、かなり賑わっていたそうです。
これは、私の記憶には残っていませんでした。

帰るときには、最近建設された「予科練平和記念館」まで
車で送ってくださいました。

いずれにしても
ふっと舞い込んだ65年前の思い出を
やさしく受けとめて下さったご夫妻のご親切に
深く感謝申し上げます。

  「予科練平和記念館」には
  阿見村の航空写真が展示されていました。
  昭和20年3月20日、米軍の偵察機から撮影されたもので
  同年6月10日、激しい爆撃を受け多大な被害がでたそうです。
  そしてその写真上に、多分この辺りが
  阿見村営住宅だろうという一画も見られました。

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