なっちゃんの思い出・母から聞いた関東大震災の話
今回の 「東日本大震災」では
思いも寄らぬ多大な被害が出て
いつ復興できるか想像も出来ない状態が続いています。
田染の横浜の絵を見ながら
針仕事をする母が
傍らに座るまだ幼かった私にぼちぼち話してくれた
横浜時代の話、関東大震災の話を、
また、時折相槌を入れる祖母の話を思い出しておりました。
( 田染幸雄のデッサン12・横浜の街で )
1923年、大震災当時、母はまだ小学生だったそうです。
なっちゃんの思い出・ 母から聞いた関東大震災の話
なっちゃんのおじいちゃんは
なっちゃんが生まれるずうっと前に死んじゃったの。
〈 お酒に殺された 〉と言われるくらい
お酒が好きな人だったとおばあちゃんは話していたけれど
沖仲仕(おきなかし)という仕事をしていて
若い人をいっぱい使っていたそうです。
海産物の取引や、古鉄などを外国船から買い取ってそれを売ったり
北海道からの豆やジャガイモの取引をしたり
主に外国船との取引だったっておばあちゃんは話していたけれど
なんだかむずかしくって、でもおもしろい話がいっぱいでした。
〈 これがロシアのお金だよ・・ 〉と言って
おばあちゃんから外国のお札を見せてもらったこともあったけれど
ロシアという国で革命が起こって、日本に逃げてきた人もいたそうです。
そのロシアのお金・・もう使えないことはわかっていたけれど
おじいちゃんは、少しだけでもと、日本のお金と取り替えてあげたとか。
〈 おじいちゃんは、やさしかったから・・ 〉と
おばあちゃんは話していました。
関東大震災のとき
もしおじいちゃん達が助けに来るのがもう少し遅れていたら
死んでしまっていたかもしれないって、お母さんは話していたけれど
その時、なっちゃんのお母さんは、まだ数えで10歳だったそうです。
ちょうど2学期の始業式が終わって家に帰ってきた時で
〈 さあご飯! 〉とおばあちゃんが言って
ちゃぶ台に向かったときに地震が起きたそうです。
お母さんの妹(まだ7歳だった七重おばちゃん)も一緒。
あまりに突然のことで、何がなんだか、何がどうなったのか
まったくわからなかったってお母さんは言っていたけれど
大急ぎで下におりようとしたら階段は曲がってしまっていて
〈 そのまま押しつぶされてしまったんだねえ・・
気がついたときには、家の下敷きになっていて・・身動きもできなかった・・ 〉
〈 お母さんがね、何とかしなければ大変なことになってしまうと思って
少しでも動こうとすると、七重が
痛い! 痛い! 動いちゃだめ! って叫ぶんだよ・・
そのうち、走って逃げていく人の姿も見えて
何だか煙の匂いもしてきたようで・・
声をかぎりに〈 たすけて! たすけて! 〉 って叫んだけれど
みんな、みんな、自分達が逃げるので精いっぱい・・
中には、立ちどまって、引っ張り出そうとしてくださる人もいたけれど
家具や柱がじゃまをして
〈 人手と道具がなけりゃあ、これじゃあ無理だっ! 〉
お母さんたちに向かって
手を合わせたり、おじぎをしてから逃げていく人もいたんですって!
〈 どのくらいの時間が流れたのか憶えていない 〉
とお母さんは話していたけれど
気がついたときには、
おじいちゃん達が助けに来てくださっていたそうです。
仕事で海に出ていたおじいちゃんは
艀(はしけぶね)の上で地震にあって・・
崩れていく横浜の町を見たんですって!
〈 その頃お母さんたちは元町という所に住んでいたんだよ。
海にも近い所だから、陸(おか)にあがったおじいちゃんや若い人達が
走りに走って助けに来てくれた・・ 〉
〈 助け出されたとき、七重ったら、枕をしっかり抱えていたんだよ・・
どうして手のとどく所に枕があったのかって
その時の話が出るたびにみんな、不思議がったものだけど・・ 〉
そしてその時の傷跡が、お母さんの肩にはくっきりと残っていました。
〈 その当時、どうして間借りなどしていたのか・・
煮炊きは下、食べたり寝たりは2階を使っていたから
だから助かったんだねえ・・ 何が幸いするかわからない 〉
おばあちゃんの話によると
〈 横浜の扇町という所に住んでいた頃
「埋地の大火」(うめちのたいか) といわれた大火事 があって
寿町、扇町、翁町、松蔭町など4千戸近い家が燃えてしまって
それで、中区の元町に引っ越していたの。
もしかしたら、家を新築するまでの、間借り生活だったのかもしれない・・〉
ということでした。
助かったもののすべてを失ってしまったお母さんたちは
関西の高砂にいた親戚の家で、避難生活を送ることになったそうです。
そして高砂で、おじいちゃんは繊維工場に働きに行くようになったものの
おばあちゃんにしてもなれない土地での、なれない生活
何やかや、いろいろ気苦労も多かったようです。
それでおじいちゃんが
〈 少しでも早く、またみんなで暮らせるように頑張るから 〉
〈 そうしたらすぐに迎えに来るから 〉と言って
一足先に横浜に帰ったそうです。
高砂に行く時
〈外国の船に乗せていただいて・・
アメリカ船だったように憶えているのだけれど・・
でも、なれない船旅はそれはそれでまた大変だった・・〉
たくさんの人が乗ったから、船倉のようなところでの寝起き・・
幾日も幾日もかかったって・・
はっきり憶えてはいないって言いながらのお母さんの話・・
〈船が港に入ると、婦人会の人や町の人たちが、おにぎりやお茶や
いろいろな物をふるまってくださったり
なぐさめてくださったりして、とてもうれしかったの。
でもね、みんな疲れきっていたから・・
それになれない船旅でみんな酔ってしまっていたから
なんにも欲しくはなかったの・・
神戸の港に着いたときも
婦人会の人たちが、食べるもの、着るもの、下着やらなにやら履物までも
一人一人に手渡しして下さって・・
その時の感激ったらなかった、忘れられないわ。
〈 その次の年の9月、横浜に帰ることができたの。
夜だったけれど、横浜駅のホームに汽車がすべりこんで・・
ヨコハマ!ヨコハマ ! って駅員さんが叫んでいるのを
聞いたときのうれしさと言ったら、言葉もなかったわ・・
そしてね、人力車に乗って横浜の市街を通ったときには
バラック建てだったけれどたくさんの家が並んでいるのを見て
ほんとうに驚いたものよ・・
そして、そのころはやっていたのが「復興節」っていう歌・・
横浜や東京の立ち直りの早さを歌ったものなんですって・・ 〉
でもね、みんながまた横浜で暮らせるようになって何年かたったとき、
おじいちゃんは死んでしまったんですって。
そのときのおじいちゃんの年は49歳、誰もがね
〈 まだ若いっていうのに、惜しい人を無くしてしまったものだ・・〉って
〈 ほんとうにお酒が好きな人だったから、葬儀の日には、
家の前に酒樽を置いて、道行く人に飲んでいただいたものよ・・〉
っておばあちゃんは話していたけれど・・
〈 亡くなる前の日にはねえ・・
コップになみなみとお酒をついで、枕もとに置いたんだけれど、
そのお酒を見ながらにこにこ笑っていただけで、
とうとう手をつけようとはしなかった・・ 〉ですって。
おばあちゃんは、
〈 あの震災では、東京の下町に住んでいた親戚や知り合いのほとんどが
死んだり行方不明になってしまって・・ 〉
お母さんも、
〈 そう言えば、親戚に、刺繍屋さんもいたわねえ。
たくさんのお針子さんを抱えてて・・
おぬいさんとおきぬさんっていう双子の子もいて・・
お母さんの従妹だったんだけれど、震災でいなくなってしまったの。 〉
〈 そしてこんどの戦争だろう・・
身内がほとんどいなくなってしまったねえ・・ 〉