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なっちゃんの思い出・国民学校1年生

2010 / 02 / 15 なっちゃんの思い出(3)

秩父路を歩きながら田染と話し、約束した
幼き日、私が埼玉に疎開していた頃の事々を
「 なっちゃんの思い出 」として、これから少しずつ記していきたいと思います。
1月31日に書いた「 疎開 」と「 戦争が終わって・お祭り 」もその一環です。

国民学校1年生

昭和21年4月、なっちゃんは国民学校1年生になりました。
お友だちがいっぱいできて
声をかけてくださる大人の人もふえ
ひとりでお出かけできるようになりました。

  その頃は、1年生になったからといって新しい学用品がある筈もなく
  教科書すらない、まさに何もない時代
  入学当初は手ぶらで通学していたのではないか、そんな気がします。

  3~4年生になった頃でもまだ、教科によっては
  学校備え付けの教科書を
  お隣どうし仲よく見ていた、そんな記憶が残っているくらいです。

  当時は、1年生は片仮名
  2年生になってから平仮名を学習することになっていましたので
  1年生の教室では、先生が黒板に書かれた

    アカイ アカイ アサヒ アサヒ 
    コマイヌサン ア コマイヌサン ウン  

  を、生徒が声をそろえて読む・・そんな授業風景だったようです。

  上級生は、あちこち黒く塗りつぶした
  まっ黒々の教科書を利用していたようです。
  それまで、とても大切な物だと言っていたはずなのに
  教科書のあちこちを黒く塗りつぶしている姉の姿を
  はらはらしながら眺めていたことだけはよく憶えています。

  疎開生活に終止符を打って高円寺に引越したのは1年生の秋でした。
  昭和21年(1946)、転校して間もなくのこと・・
  教育方針の転換からか、1年生から平仮名を学ぶようになりました。

東京の学校って、変わったことがいっぱいあるんだなあ
前の学校ではみんな、まだカタカナで勉強しているにちがいない 

  とその時思ったのでよく憶えています。

  それから間もなくだったように記憶しているのですが
  まだ高円寺の学校にいた頃なので、昭和22~23年頃
  今度は旧仮名遣いから新仮名遣いへの変更がありました。
  これも、子供たちにとっては
  何の前ぶれも無い、突然の出来事でした。

  先生が黒板に “ ゐ” と “ ゑ ” を書かれて
  〈 これからは、この文字は使えなくなりました。
  これまで “ ゐ ” を使っていた言葉はぜんぶ “ い ” に
  “ ゑ ” と書いていた言葉は “ え ” を使うようになりました 〉

     いひました → いいました  
    人にあふ → 人にあう 

  この時の授業ではっきり憶えていることは
  先生が黒板に “ てふてふ ” と書かれて
  〈 これからは、 “ ちょうちょう ” と書くようになりました 〉
  と、おっしゃった時のことです。

いろんな事がどんどん変わっていくんだなあと思いながら
黒板をじいっと見ているうちに、なっちゃんはふっと
“ ちょうちょう ” ではなくて“ てふてふ ” のほうがいいのに
と思っていました。
“ てふてふ ” のほうが “ ちょうちょう ” より
よっぽどひらひら 飛んでいるように見えるのに・・
ほうら黒板中いっぱいに “ てふてふ てふてふ” って飛んでいる !
でもね、 “ ちょうちょう ” って書いても
ちっとも飛んでるようには見えないじゃない、と思っていました。

 [ 旧仮名遣いから新仮名遣いへの変更の例 ]

   (井戸)    ゐど→いど      ヰド→イド
   (絵具)    ゑのぐ→えのぐ    ヱノグ→エノグ
   (言いました) いひました→いいました  イヒマシタ→イイマシタ
   (運動会)   うんどうくわい→うんどうかい

それからもう一つ
  新宿区の学校に転校してからの事なので昭和24~25年頃
  ローマ字教育が始まった時のことも憶えています。
  ローマ字で書かれた教科書を
  どぎまぎしながら音読した時の記憶は残っているのですが
  それはほんの一時のことで
  ローマ字教育は、長続きはしなかったようです。

( 注 )国民学校は、第2次大戦中の昭和16年(1941年)にそれまでの
    尋常(じんじょう)小学校を改め設立され、
    戦後の昭和22年(1947年)、新しい学校基本法施行とともに
    小学校に移行しました。

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