なっちゃんの思い出・国民学校1年生
秩父路を歩きながら田染と話し、約束した
幼き日、私が埼玉に疎開していた頃の事々を
「 なっちゃんの思い出 」として、これから少しずつ記していきたいと思います。
1月31日に書いた「 疎開 」と「 戦争が終わって・お祭り 」もその一環です。
国民学校1年生
昭和21年4月、なっちゃんは国民学校1年生になりました。
お友だちがいっぱいできて
声をかけてくださる大人の人もふえ
ひとりでお出かけできるようになりました。
その頃は、1年生になったからといって新しい学用品がある筈もなく
教科書すらない、まさに何もない時代
入学当初は手ぶらで通学していたのではないか、そんな気がします。
3~4年生になった頃でもまだ、教科によっては
学校備え付けの教科書を
お隣どうし仲よく見ていた、そんな記憶が残っているくらいです。
当時は、1年生は片仮名
2年生になってから平仮名を学習することになっていましたので
1年生の教室では、先生が黒板に書かれた
アカイ アカイ アサヒ アサヒ
コマイヌサン ア コマイヌサン ウン
を、生徒が声をそろえて読む・・そんな授業風景だったようです。
上級生は、あちこち黒く塗りつぶした
まっ黒々の教科書を利用していたようです。
それまで、とても大切な物だと言っていたはずなのに
教科書のあちこちを黒く塗りつぶしている姉の姿を
はらはらしながら眺めていたことだけはよく憶えています。
疎開生活に終止符を打って高円寺に引越したのは1年生の秋でした。
昭和21年(1946)、転校して間もなくのこと・・
教育方針の転換からか、1年生から平仮名を学ぶようになりました。
東京の学校って、変わったことがいっぱいあるんだなあ
前の学校ではみんな、まだカタカナで勉強しているにちがいない
とその時思ったのでよく憶えています。
それから間もなくだったように記憶しているのですが
まだ高円寺の学校にいた頃なので、昭和22~23年頃
今度は旧仮名遣いから新仮名遣いへの変更がありました。
これも、子供たちにとっては
何の前ぶれも無い、突然の出来事でした。
先生が黒板に “ ゐ” と “ ゑ ” を書かれて
〈 これからは、この文字は使えなくなりました。
これまで “ ゐ ” を使っていた言葉はぜんぶ “ い ” に
“ ゑ ” と書いていた言葉は “ え ” を使うようになりました 〉
いひました → いいました
人にあふ → 人にあう
この時の授業ではっきり憶えていることは
先生が黒板に “ てふてふ ” と書かれて
〈 これからは、 “ ちょうちょう ” と書くようになりました 〉
と、おっしゃった時のことです。
いろんな事がどんどん変わっていくんだなあと思いながら
黒板をじいっと見ているうちに、なっちゃんはふっと
“ ちょうちょう ” ではなくて“ てふてふ ” のほうがいいのに
と思っていました。
“ てふてふ ” のほうが “ ちょうちょう ” より
よっぽどひらひら 飛んでいるように見えるのに・・
ほうら黒板中いっぱいに “ てふてふ てふてふ” って飛んでいる !
でもね、 “ ちょうちょう ” って書いても
ちっとも飛んでるようには見えないじゃない、と思っていました。
[ 旧仮名遣いから新仮名遣いへの変更の例 ]
(井戸) ゐど→いど ヰド→イド
(絵具) ゑのぐ→えのぐ ヱノグ→エノグ
(言いました) いひました→いいました イヒマシタ→イイマシタ
(運動会) うんどうくわい→うんどうかい
それからもう一つ
新宿区の学校に転校してからの事なので昭和24~25年頃
ローマ字教育が始まった時のことも憶えています。
ローマ字で書かれた教科書を
どぎまぎしながら音読した時の記憶は残っているのですが
それはほんの一時のことで
ローマ字教育は、長続きはしなかったようです。
( 注 )国民学校は、第2次大戦中の昭和16年(1941年)にそれまでの
尋常(じんじょう)小学校を改め設立され、
戦後の昭和22年(1947年)、新しい学校基本法施行とともに
小学校に移行しました。