なっちゃんの暑い夏(2) 霞ヶ浦海軍航空隊と予科練の思い出
周防大島(山口県)は〈金魚のような形をしている〉とよく言われますが、
義弟の運転する車でその島に出かけたのは、2003年7月のことでした。
車は、田布施を経て柳井へ、そして大畠町、
そこから橋を渡って周防大島へ入り
海辺の道を、金魚でいえばしっぽの先まで行きました。
その日は、空も海もすっきりと澄みわたっていて
車窓から見える白い砂浜には人影もなく
小さな波が、ひたひたと寄せては返すだけ。
その海は、瀬戸内海のさらに内海でしたので
いくつもの島が遠く近く点在していました。
やがて義弟が
〈こういう所もある〉といって車を止めたのが、陸奥記念館前でした。
でもその時の私は、<戦艦陸奥>と聞いても
さほどの興味もわかないまま
背中を押されるようなかたちで館内に入っておりました。
そして、外の暑さとざわめきを引きずったまま展示物を眺めているうちにいつか
とらえようのない、何とも言いようのない心の高ぶりを感じていたのです。
思いがけなくもそこには、
幼き日の私の思い出の品物が展示されていたからです。
予科練の制服、桜と錨の模様のついたボタン・・
いつの間にか
服にさわった時の手の感触まで思い出しておりました。
<戦艦陸奥>は、昭和18年6月(1943)火薬庫が大爆発を起こし沈没。
“謎の爆沈”といわれているそうです。
27年後の1970年7月、引き上げ作業がはじまっています。
そして陸奥記念館には、引き上げられた多くの遺品、
また陸奥建造から爆沈までの資料が展示されています
〈1943年(昭和18年)茨城県阿見村で・霞ヶ浦海軍航空隊のこと〉
♪♪ ・・ なーな~つボータンは さくらにいかり
ぐんと とべと~べ かすみがうらの・・♪♪
土浦駅からバスに乗ると、坂下航空隊前、坂上航空隊前というバス停があって
その坂上航空隊の近くにあった小さな住い・・阿見村営住宅
その部屋の中に淀んでいた空気のかたまりが、
胸に迫ってくるようでした。
〈お客さまがみえるから、お行儀よくしているのよ〉
いつものように ばあばが言いました。
うれしくってなっちゃんは、思わずこっくりうなずいていました
お客さまは、予科練のお兄さんにまちがいない!
思っただけで 大にこにこ
いつも、じいじとばあばだけ、
お友だちもいなかったから
なっちゃんは、お客さまがだいすき!
ほうら、やっぱりそうだった!
予科練のお兄さんと、そのお母さま。
きょうのお兄さんは、
〈こんにちは〉ってご挨拶したなっちゃんを抱っこして
高い高いをしてくださったの。
もっと前にはね、ばあばといっしょにお茶を出しにいったとき
両手をついてごあいさつができたなっちゃんを、
〈いい子だね〉ってほめてくださって、
あぐらのお膝にだっこしてくださったこともあるの。
なっちゃんは、うれしくってはずかしくって・・
おみやげをいただいたこともありました。
三角形のセロファンの袋に入った甘納豆
それからエンピツ・・
でも、いつまでもおじゃましていてはいけませんって
ばあばに言われていたから
ごあいさつのあとは、いつもひとりで遊んでいたの。
お猿さんを見に行ったり
地面に絵をかいたり、そして歌っていたの・・
♪♪・・わーかき ちしおの よかれんの
なーな~つボタンはさくらにいかり・・♪♪
これは、私が3,4歳ころの話です。
茨城県阿見村で、私が伯母夫婦と三人で暮らしていたのは
昭和17年後半から19年(1942~44)はじめまでの1年少々のことでした。
伯父は日本郵船のコックをしていたのですが
戦況が厳しくなって船をおりることになり
新たに提示された職場がサイパン島か霞ヶ浦。
家族同伴とのことで、昔、東横線の妙蓮寺の菊名池で
ボートに乗ろうとして誤って池に落ちた経歴のある伯母が
船に乗ることに猛反対・・結局霞ヶ浦に落ち着いたそうです。
その後、19年のお正月過ぎに父が出征すると
祖母、身重の母、姉、妹の四人が阿見村に引っ越してきて
総勢7人、狭い家での同居生活がはじまっています。
間もなく(1942年暮か43年はじめ)
39歳の伯父のもとにも召集令状がきて
私たち一家は阿見村を離れることになりました。
伯母がよく、狭くって使い勝手の悪い家だったと言っていたように
村営住宅は今様に言えば3K、それも、
炬燵を置けるだけの3畳か4畳半の和室が台所の隣にあって
あと6畳の和室が二部屋。
そして伯父が、“入ったような気がしない”といつも言っていた
小さなお風呂場がついているだけでした。
村営住宅だったので、同じような造りの家が沢山並んでいて
近くには、霞ヶ浦海軍航空隊と阿見神社がありました。
住宅の入口付近には金網囲いの小屋があって
1匹の猿が飼われていたのですが
昭和19年(1944)の夏私が白河から戻ってきたときには
もうそこに、猿の姿はありませんでした。
また、これは私の想像にすぎませんが、
村営住宅入居の際に何らかの約束事があったのか、あるいは、
伯父が、霞ヶ浦海軍航空隊学生舎食堂のコックとして働いていたので、
その方面からの要請があったのかどうか・・
住宅は時に、予科練の学生さんとご家族との
面会の場所としても利用されていたようです。
そんなこんなを伯母に尋ねたこともあるのですが
〈そう言われてみればそんなこともあったような気がするけれど
もう昔のことだし、忘れてしまったわ。
あの頃のことなんて、もうなんにも思い出したくはない・・〉
そんなわけで、
幼かった私の思い出だけを繋ぎ合わせて考えてみると
同じ人がなんどか見えているうちに親しいお付き合いもはじまって・・
弟が生まれたのが1944年7月
そしてその前後一時、私を預かってくださった〈白河のおばちゃん〉も
あるいは予科練の学生さんの親族のお一人ではなかったのかと
かってに想像してしまっております。
また、私が憶えていたことが事実だとすると、
時には、戦地へ赴くことが決まった人たちとご家族との
最後の面会の場所になったこともあったのではないか・・
そうした事ごとを考え、また陸奥の謎の爆沈が
昭和18年(1943)6月8日だったことなどを思い合わせると、
何とも言えない複雑な思いにかられてしまっておりました。
〈2003年・なぎさ水族館にて〉
陸奥記念館の外は、思わず目をつぶりたくなるほどの真っ青な空と
強烈な太陽の輝きに満ちあふれていました。
記念館のチケットで水族館にも入れるようになっていたので
私たちは、吸い込まれるように水族館に入っておりました。
せまい所でしたけれど、
入口近くに、子供たちがはだしで遊べるような水辺が出来ていたり
2階の小さな水槽にはクリオネの姿もありました。
私は、体長4,50センチほどの大きな魚が小さな水槽の中で
じっと動かずに・・へんな表現ですが、たたずんでいる・・
その前から離れ難くなっておりました。
魚の目を見ているうちに
ほら・・ね、目が合った! 少し歩くと、ほら、魚の目も動いた
じっと魚の目を見つめているうちに、
この魚、私の心の中を読んでいるのではないか・・などと
妙な錯覚に陥ってしまっておりました。
水槽の反対側に周ってみると、魚もゆっくりと向きを変えて・・
またお互いじっと目と目を見合わせる時間・・
〈この魚は、人によく慣れるんですよ〉と水族館の方が話していましたけれど
ということは・・私が記念館で受けた衝撃を
この魚だけは、汲み取ってくれたのかも知れないと
ひとり納得しておりました。
水槽に魚の名が書いてあったはずなのに見ておりませんでした。
辞典で調べてはみたものの、はっきりした事はわからずじまい。
でも、絵柄の中で一番近いものといったら・・
もしかしたら、“こぶ鯛”だったのかもしれません。
〈 私の記憶の中の空襲・昭和20年(1945) 〉
私が憶えている、というか、脳裏に焼きついている空襲は
疎開先の埼玉の斎条で目撃した、熊谷市の大空襲でした。
夜空いっぱいに炸裂する閃光
その下から巻き上がるように燃え上がる炎の渦・・
そして私・・
満6歳を迎えたばかりのなっちゃんは、
ガチガチと震える歯音をおさえようと
両手でしっかりと口を押さえていました。
近くに立っていた男の人たちが
〈熊谷かい・・〉
〈・・うんにゃあ、もっと近い・・〉
〈・・ 〉
と話していたけれど、
身動きも出来ずなっちゃんは、ただじっと空を見続けていました。
この熊谷の大空襲があったのは、1945年8月14日
戦争が終わったのが、その翌日の8月15日・・敗戦でした。
その日は、とてもお天気がよくて、そして暑い日でした。
当時私達は、お医者さんの家の、離れを借りて暮らしていたので
畑の間の細い小道を通って裏庭から出入りし
廊下を玄関代わりに使うことも多かったようです。
その日、その裏庭には、村の人たちが何人も集まっていました。
廊下には<ナナオラ・ラジオ>が置いてあって
みんな、黙って放送を聞いていました。
今日がどういう日なのか
なっちゃんには、さっぱりわからなかったの。
どうして今日は、みんなそろってラジオを聞いているの?
こんなの、はじめてだ!
ラジオがなにを言っているのかよくわからなかったし
いちばん後ろで、
おじちゃんやおばちゃんの背中ばかり見ていたなっちゃんには
わけがわからないことばかり・・
あっち見たり、こっち見たりしていたの。
ねっ、ほら、畑のあのトマト、
まっかっか(真っ赤)でとってもおいしそう!
〈つばつーけた!〉